その池の名前を最初に聞いたとき、「ちょっと怖いな」と思った。
雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)。千葉県にある人工の溜池で、釣り人には有名らしいが、地元では“ちょっとした噂”もあるという。
俺がそこを訪れたのは、10月の終わり。
車中泊の旅の途中で、地図にぽつんとあるこの池が目に止まった。
「駐車場があって、静かな場所で、星も見える」──その程度の理由だった。
到着は夕方すぎ。
池は静かで、水面は鏡のよう。釣り人も帰り支度をしていて、すぐに誰もいなくなった。
バンを停めて、カップ麺を食べながらぼんやりと水辺を眺める。
空が暗くなるにつれ、虫の声も消え、風の音だけが残った。
誰もいない。静かで、心地よい夜のはずだった。
9時を過ぎたころ、寝袋に入って目を閉じる。
しん、とした空気の中、波紋のように不安だけが広がっていく。
そして──それは、突然聞こえた。
「……⚪︎⚪︎…」
耳元で、誰かが俺の名前を呼んだ。
聞き間違いだと思いたい。でも、その声ははっきりとした女の声だった。
「風の音……だよな?」
そう言い聞かせながらも、背中の汗がじっとりと滲む。
再び目を閉じても、音は消えてくれなかった。
「……⚪︎⚪︎…」
今度は、ささやくように、確かに。
助手席のほうから聞こえた。
怖くて、動けなかった。
でも、確認しないと眠れない。
意を決してカーテンをめくる。
……誰もいない。
ただ、池のほうに向かって、助手席の窓が少しだけ曇っていた。
あの方向に……誰かいたのか?
それ以上、確認する勇気は出なかった。
寝袋にくるまり、耳をふさぎ、夜が過ぎるのを待った。
朝。
ガラスに残っていた曇りも消え、風が池の水面を静かに揺らしていた。
池のほとりに足を運ぶ。
昨夜の気配は、何もなかったように消えていた。
でも、ふと足元に目をやると、濡れた地面に小さな足跡が、助手席の方向から続いていた。
誰のものかはわからない。
でも、昨夜のあの声は、きっと……
俺の名前を呼んでいた。


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