車中泊。
それは自由の象徴だと思っていた。
ホテルの予約も、チェックイン時間もいらない。好きな場所で、好きなタイミングで寝て、起きる。
俺はずっと、そんな旅に憧れていた。
けれど、あの夜。
自由の裏に潜んでいた“何か”を、俺は知ることになる。
スズキ・エブリイ。手に入れたばかりの相棒に毛布やマットを積み込み、俺は初めての車中泊に出た。
目指したのは、長野の標高1200メートルにある展望スポット。
キャンプは禁止。けれど人の話では、夜景が綺麗で、誰も来ないらしい。
「静かに寝るには最高の場所じゃん」と浮かれてハンドルを握った。
実際、到着してみると、そこは完璧だった。
山の上から見下ろす街の灯り。遠くに微かに流れる車の音。風が葉を揺らし、空には星がまたたく。
「これ、勝ち確じゃね?」
ひとり車の中でコンビニのカツ丼を広げ、缶ビールで小さく祝杯をあげた。
問題が起きたのは、夜の十時過ぎだった。
寝る準備をして、ランタンの灯りを消したあとのこと。
毛布にくるまって、目を閉じたとき──
……コンコン。
小さな音が、助手席側のドアをノックした。
「ん?風か?」
自分にそう言い聞かせる。でも、耳だけがそちらを向いている。
……コン、コン、コン。
明らかにリズムのあるノックが続いた。
怖い。けど、見ないわけにはいかない。
恐る恐るカーテンの隙間を開けた。
誰もいない。
外は、霧。
ヘッドライトをつけても、光は真っ白な壁に吸い込まれるだけだった。
「狸……? 猿……? 人じゃないよな?」
そう言いながら、無意識にドアロックを確認する。
そして、深く寝袋に潜り込んだ。
けれど、それは終わりではなかった。
深夜0時。
ガサッ……ガサガサッ……
車内のどこかから物音がした。
外じゃない。中で何かが動いたような音。
俺は寝袋に包まったまま、スマホの録音アプリを起動した。
「録れたら、後で聞いてみよう……」
録音されたのは、自分の鼻息と、ひとつの「ミシ……」という微かな音だけだった。
意を決して、運転席側のカーテンをめくる。
その瞬間。
──フロントガラスに、手形があった。
曇ったガラスに、指の形がくっきりとついた、べったりとした跡。
それも、内側に。
「いやいや、俺触ってないって!? 内側!?!?」
思わず車内をくまなく見回す。誰もいない。
荷物も無事。でも、あの手形だけがそこに残っている。
眠れないまま、朝を迎えた。
朝7時。東の空に太陽が昇る。
バンの窓はすっかり乾いていて、あの手形も、いつの間にか消えていた。
ネットで調べた限り、どうやら結露と温度差のせいで、俺自身の腕が窓に触れた可能性が高いらしい。
……そう、思うことにした。
初めての車中泊。最高のロケーション。
でも、静かすぎる夜は、音が全部“誰かの気配”に聞こえるってことを、俺はこのとき初めて知った。
以来、俺は「適度に人のいる道の駅」を好むようになった。
深夜のトラックの音。コンビニの白い灯り。
それらすべてが、今では心強い“安心材料”だ。
車中泊。それは自由だ。だけど、完全な静けさは、時に孤独を越えて、何か別のものを呼び込む。
これから車中泊を始める人へ、伝えたい。
──「本当に静かな夜に、“誰か”がノックしてきても、返事をしないように」と。


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