相模湖に着いたのは、ちょうど陽が傾きはじめた頃だった。
湖畔の空気はひんやりとしていて、晩秋の風が頬に優しく当たる。
観光地とはいえ、シーズンを過ぎた夕方の湖は驚くほど静かだった。釣り人もすでに道具を片づけ、どこかへ帰っていったあとらしい。
波の音もなく、水面はただ、ぼんやりと夕焼けを映していた。
「今日はここで寝るか」
湖を見下ろす小さな駐車スペースにバンを停める。
湯を沸かし、手早くインスタントの夕飯を済ませると、あとは本を読んだり、スマホで地図を眺めたり。
とりたてて特別なことは何もないけれど、こういう時間が旅の中ではいちばん落ち着く。
夜は冷えるだろうと、早めに毛布にくるまりながら窓の外をぼんやり眺めていたときだった。
──桟橋の先に、釣り竿が一本立っている。
向こう岸に突き出た小さな桟橋。その先端に、一本の竿が湖に向かって真っすぐ伸びていた。
けれど、人の姿が見えない。
明かりもない。動く影も、手元のしぐさも何も。
ただ、竿だけが、そこにある。
風もないのに、竿の先が微かに揺れているように見えた。
「誰か、いるのか?」
口に出した声が、あまりにも頼りなく聞こえて、自分でおかしくなった。
誰も答えないのは当然で、それでも何かが答えたような気がして、窓のカーテンをそっと閉めた。
それからしばらく眠れずにいた。
目を閉じれば、あの竿の輪郭が、薄明かりの中にぼうっと浮かんでくる。
音も声もない。なのに、気配だけが強く残っている。
人のようで、人ではない。そこに“ずっといる”ような何か。
怖くはなかった。けれど、決して無関係ではいられないような、静かな緊張があった。
夜の湖には、理由のないものがたまに現れる。
それはきっと、誰かの残した時間の名残りみたいなものだ。
朝になって、カーテンを開ける。
桟橋に、もう釣り竿はなかった。
湖も空も、何事もなかったような顔で、ただ静かに光っていた。
昨夜、確かにあそこにあったはずのもの。
あの不思議な光景も、夢だったといえばそれまでだ。
でも、夢にしては身体のどこかが、まだ引っかかっている。
……たぶん、あの場所には、誰かが今も釣りをしている。
姿は見えなくても、好きだった時間の中に、まだ留まっているんだろう。
湖の水面に目をやると、かすかに波が立っていた。
風か、それとも……誰かが引き上げた糸の跡だったのかもしれない。


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