『池田温泉、夜の足音』
風呂上がりの肌に、ひんやりした夜風が気持ちよかった。
道の駅「池田温泉」。日が落ちてからの駐車場はひっそりしていて、他の車も数台だけ。施設はすでに閉まっていて、風呂上がりの気配もどこかへ消えていた。
「今夜はここで寝よう」
そう決めて、軽バンの中にマットを敷き、カップ麺をすする。湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ山の稜線。その背後には、かつて数万人の兵が命を賭けて戦った関ヶ原がある。
でも、ここにはそんな物々しさはない。
空は広く、空気は静か。スマホの通知もなく、ただ、夜が満ちてゆく音だけが聞こえた。
本を読んでいた手が止まり、ふと耳を澄ます。
サッ……サッ……
草を踏むような、小さな足音。
窓の外から、はっきりと聞こえた。
誰かが歩いている?
……こんな時間に?
カーテンの隙間からそっと外を覗いたが、そこには誰もいなかった。
月明かりに照らされたアスファルトが、ただ静かに伸びているだけ。
空耳だろうか。いや、あれは——リアルだった。
耳の奥にまだ、あの音の余韻が残っている。
もう一度横になり、毛布をかぶる。エンジンも消え、車内はしんと静まり返っていた。
けれど、眠りは浅い。目を閉じれば、あの足音が耳に蘇ってくる。
そして──夜中の二時ごろ。
何かが、車のすぐ横を通った。
音はしなかった。けれど確かに感じた。
誰かが、そこにいた気配。窓の向こう、手を伸ばせば届きそうな距離に。
カーテンを開ける勇気は出なかった。
見てしまったら、戻ってこれないような気がした。
ただ黙って、息を殺して、影が過ぎるのを待った。
朝。
空気は冷え切っていたが、空は澄みわたり、まるで昨夜の出来事など最初からなかったようだった。
カップに湯を注ぎながら、あの夜の“足音”のことを考える。
夢だったのかもしれない。
でも、そう思い込もうとする自分がいるということは、たぶん——夢じゃなかった。
あの足音は、確かに“ここ”を歩いていた。
誰かが、夜ごと静かに巡っている。
姿は見えない。音も気まぐれにしか響かない。
けれど、それはここに“いる”ものの気配として、旅人だけが気づくように現れるのだ。
エンジンをかけ、ミラー越しに道の駅の建物が遠ざかっていく。
今日も、きっとあの足音は歩いている。
今夜もまた、誰かの車のそばを静かに通り過ぎていくのだろう。
そしてまた、誰にも気づかれないまま、次の夜へと溶けてゆく。


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