九十九里の海に来たのは、久しぶりだった。
目的地は片貝海岸の駐車場。波の音を聞きながら寝たいと思って、車中泊先に選んだ。
シーズンオフの平日。人はまばらで、海は夕陽に照らされて静かに揺れていた。
バンのスライドドアを開けたまま、潮風を浴びながらカップ麺とおにぎりで簡単な晩飯。
空が夜に溶けるにつれて、波の音だけがだんだん大きく聞こえてくる。
「いい夜になりそうだな」
心から、そう思った。
このときまでは。
夜の9時を過ぎると、駐車場には俺の車だけになった。
街灯はあるにはあるが、明るいというより“ぼんやり光っている”程度。
潮の香りが濃くなり、波のリズムが眠気を誘う。
シェードをつけて、車内を寝る体勢に整える。
波の音をBGMにするつもりだったが、思いのほか強く響く。
それでも、しばらくすると意識が遠のきかけた。
が——
「……ねぇ」
耳元で、誰かの声がした。
思わず目を開ける。
今のは夢? 空耳?
でも確かに、“女の声”だった気がする。
そっとカーテンの隙間から外を見る。誰もいない。
波の音だけが、変わらず押し寄せては返っていく。
「……気のせい、だよな」
そう思って目を閉じたけれど、今度は別の気配が背中に走った。
後ろから……視線を感じる。
車内には俺しかいない。
それなのに、まるで誰かが助手席の向こうに座って、俺をじっと見ているような気がしてならない。
怖くて、身体を動かせない。
だけど、どうしても確認したくなって、意を決して後ろを振り向いた。
──誰も、いなかった。
あたりまえだ。でも、空気が変だった。
助手席の窓が、うっすら曇っていた。
その曇りの中心に、小さな丸がぽつりとひとつ——まるで誰かが、鼻をくっつけて中を覗いていたような跡。
ゾクリ、と背筋を冷たいものが這い上がる。
誰かが外にいた? いや、跡は内側にしか見えなかった。
結局、朝までまともに眠れなかった。
夜が明けるまで、ただ波の音を聞きながら目を閉じていただけだった。
朝日が昇り、周囲に人の気配が戻ってくる。
サーファーが何人かやってきて、波を見つめている。
俺も車を降りて、海のほうに歩いた。
潮風が心地よい。でも、やっぱり、昨日の夜のあの声が耳に残っている。
砂浜のそばに、小さな貝殻が並べられていた。
規則的に、三つ。綺麗に、誰かが置いたように。
何も起きなかった。
けれど、“何もなかった”というには、記憶が妙にざらついている。
波の音の中に混じる声。
曇ったガラスに残る、小さな丸い跡。
そして、助手席から感じた視線。
……あの夜、俺は本当にひとりだったんだろうか。


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