誰もいないキャンプ場って、たまらなく心地いい。
そんなふうに思っていたのは、最初だけだった。
東北の山奥、地図にも小さくしか載っていない無料のキャンプ場。
紅葉の名残を追いかけながら北上していた旅の途中で、偶然たどり着いた場所だった。
標高はそこそこあって、空気が澄んでいる。
鳥の声と、風が葉を揺らす音だけが響いていて、それ以外の音が見当たらない。
受付らしき小屋の前にいた、年配の男性が言った。
「今日は誰もいないよ。好きなとこ停めていいから」
誰もいない。——それは旅人にとって、ちょっとした贅沢だ。
バンを木陰に停め、軽くストレッチして、大きくひと息。
夕陽が山に沈みはじめる頃には、空気がぐっと冷えた。
夕飯は簡単に済ませた。星がよく見える夜だったけれど、外に長くいられる寒さではなくて、早々に寝袋へ。
風が時折、木々を揺らす。
遠くでフクロウが鳴いていた。静かで、優しい夜だった。
ふと目が覚めたのは、深夜の二時過ぎだったと思う。
寒さというより、喉の渇きと、軽い尿意。
寝袋からそっと這い出して、スライドドアを開ける。
そのときだった。
足元、車のすぐ横に、それはあった。
白い紙コップ。
倒れていない。風に転がされてもいない。
ふたも、ストローもない、ただの使い捨ての紙コップが、ぴたりと立っている。
まるで、誰かがそこに置いたように。
しかも、綺麗なまま。土の上に置かれているのに、汚れも、落ち葉もついていない。
「……誰が?」
思わず口に出していた。だが、声は風に吸われて消えていった。
風で転がってきた……? いや、だったら立っているのはおかしい。
この時間、他に人なんていない。誰かが来たなら、足音くらい聞こえたはずだ。
頭の中に、「なぜ」「なんのために」という問いが渦巻く。
だけど答えは出ない。出るはずもない。
ただ、紙コップがそこにあるという、それだけが現実だった。
そっとドアを閉め、寝袋に戻った。
でも、もう眠れなかった。
目を閉じても、白い紙コップがまぶたの裏に浮かんでくる。
朝。山の空気は冷たく、清々しい。
けれど、あの夜のことがどこか胸に引っかかったままだった。
カーテンを開け、恐る恐る外を見る。
——紙コップは、消えていた。
風で飛ばされた?
それとも、誰かが持って行った?
いや、そもそも本当にあれは“あった”のだろうか……?
気になって、キャンプ場の隅に置かれたゴミ箱を覗いてみる。
中には、潰れずに立ったままの白い紙コップが二つ。
──昨夜のは、ひとつだけだったはず。
その瞬間、ぞわっと背中をなにかが撫でたような感覚が走った。
誰かが、もうひとつ——「一緒に」使っていたのかもしれない。
静かで、確かに誰もいないはずのキャンプ場。
けれど、あの紙コップがそこにあったということは、きっと……
そこに、“誰か”がいた。
そしてその“誰か”は、ひとりで飲むのが、少し寂しかったのかもしれない。


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